読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読書記録と雑感

読んだ本とか思ったこととかの記録用

橋爪大三郎『はじめての構造主義』

本屋でこの本を買おうとしたら、たまたま一緒にいた友達が持ってるというので借してくれた。最近、道具を揃えたくていろいろな思想とか考え方を勉強しようとしていて、構造主義もその流れで勉強したいと思った。橋爪大三郎は高校の先生に『はじめての言語ゲーム』をもらって読みやすかったから、構造主義も入門するならここからかなと思った。

高校生のときソーカルとブリクモンの『知の欺瞞』を読んで、フランス現代思想とかポストモダン思想とかにあまりいいイメージを持ってなかった。こういう思想って現象に対してなにか誠実な物言いができるんだろうか、と疑問をもっていたけど、この本(特に一番最後の章)を読んだ限りではそういう傾向はポスト構造主義にあって構造主義にとってはとばっちりではないかと思った。

なにか一つの統一した理論で世の中の現象を描くことができる、というのはとてもばかばかしい考え方で、あるところでうまくいってるように見えてもほかには適用できなかったり、ある理論でうまく説明できることが他の方法でもうまく説明できることは普通のことだ。

あまり関係ないけど「女は感情的になってしまって論理的に考えられない」というのはたまに言われる言葉だ。でも感情的に考えられないほうがよっぽどまずい。人間社会は人間の行動でできているし、人間の行動は論理的にだけは決まらない。感情とか情動というのは確かな構成要素である。「感情は人によって違うが、論理はすべての人に共通だから論理的に決定を為すべきだ」というのも論理とか理屈のことを信用しすぎだと思う。論理的にどうの、という言い方は人を説得するのに便利とか納得したような気持ちにさせることができる、という部分がけっこう大きい気がする。論理的であることは最大公約数としてわかりやすいから。いろいろな方向から考えなきゃいけないのだ。

話を戻して、構造主義というのも世に数多ある現象の説明の仕方の一つとして有効なのだという印象を得た。決して一つの理論で世の現象を知ることができるとは思ってはいけない。

それならなぜ世の現象を少しでも説明できる理論が存在して、そして人間はそれを求めてしまうのか、科学理論について考えるときもそのことは考えちゃう問いである。違う角度から、神経科学の方向からとかわかったりしないのかな。