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読書記録と雑感

読んだ本とか思ったこととかの記録用

私わりとあほっぽいな

卒論の先行研究がまだ終わらないのだけど、あと2ヶ月じゃんね。大丈夫なのかな。

 

構造実在論がいう主張は、なんだかとてもアドホックじゃないのってこと言おうかな、とか、そもそも「構造」の定義ってどうなのとか書こうかな、とかまだふわふわしている。とりあえずそういう関連の話言えたらいいかなと思っている。

シロスとかチャクラバティとかそういう話してるし。

 

構造実在論の議論ちゃんと追ってたらチャクラバティが、私の思ってたことけっこうやってるらしくて、いや私、

http://tamiassibiricus.hatenablog.com/entry/2016/05/01/155431

5月の時点で、自分の興味とチャクラバティが関係してそうとか言ってるし、いやもう少しそこで勉強しとけよ!!

と思った。あと、4月くらいに科学がうまくいってきたことの説明がどうのとか言ってんの

http://tamiassibiricus.hatenablog.com/entry/2016/04/19/231408

も奇跡論法だし、私この時点で科学的実在論争の議論知ってるはずだし、そことつながんないのけっこう我ながら頭悪いんじゃないかなと思った。

 

f:id:tamiassibiricus:20161115180232j:image

まわりの人にこういうこと言って、大変だねって言われることが最近しばしばあって、私はけっこう大変なところに首を突っ込んでしまおうとしてるんじゃないかとじわじわ思い始めている。

こういうことずっと中学生くらいのときから疑問に思ってるし、哲学とか全然興味ないのにこのために文転して哲学専攻きちゃったので、なんとかして少しでもわかりたいです……。

きゅうけい中

ハムレット』のあらすじを書く用事(?)があって、高校生ぶりくらいに読んだ。だいぶ筋を忘れてたのと、いままでハムレットの性格をけっこう取り違えたような気がした。

 

ハムレットと言えば、 "To be or not to be, that is the question". という第4独白の解釈をどうするかという話題がとっても語られてきたそうだけど、今回改めて読んで、これの主語ってハムレットじゃなくて、叔父のクローディアスや母のガートルードなのではないかなともちょっと思った。

 

ここの訳は、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」というハムレットの自殺願望を根拠にした説と、「為すべきか、為さざるべきか、それが問題だ」という父に頼まれた復讐をほんとにやってよいのか悩むという説との2種類が言われるように思う。

 

でもこれの主語を叔父や母にすると、「(あのような罪を犯した人間が、) この世に在って良いのか、そうではないのだろうか、それが問題だ」という風に読める。このハムレットの長台詞には "I" や "me" などの一人称を示す言葉が出てこないことが指摘される。これは自分のことを語りながらも、ハムレットは徹底して客観的に自らを語っているのだと説明されるそうだけど、そうでなくこう考えると単純に自然な流れな気がする。

 

この苦悩は、復讐をすべきか悩み、先延ばしにするハムレットの姿ともすんなり重なるように思う。だけど、そのあとの台詞の内容的にこう解釈するのは無理あるのかなあ。とか言ってないで卒論やれ。

卒論の進捗がない

指導教官に「大学院に持っていける卒論を書いてね〜」的なことを言われているのだけど、私、それだと卒業できなそうなのですが……という惨状。あまりに大きいことを言おうとしてたのは自分でもわかっていて、学部の卒論だし、意味不明な奇抜なこと書いて卒業すりゃえーやん、みたいな気持ちもなきにしもあらずだったのだけど、もう少し真面目に堅実に書いていくというほうに更生した。

 

卒論、こんなことやりたいですって先生に話してみたら、科学的実在論じゃんと言われて、自分の言いたいことが構造実在論の議論の中でけっこう言えそうということもわかってきた。科学的実在論、『科学的実在論を擁護する』も去年読んでレジュメきってゼミ発表までしたのに、全然わかってないじゃんな。

 

私の立場としては、認識論的構造実在論をとりたくて、その上で、実在する数学的構造をそうたらしめているのは、人間の認識とは独立に存在する自然法則だと言いたいのだけど、言えないのかな、難しいかな。とりあえずは卒論でそこまで言うのはやめて、構造実在論の議論に沿って卒論書いて、強くなっときたいです。

 

散歩が楽しい話

少し治安の悪そうな繁華街を散歩するのが好きなのはいつからなのかはわからないが、読みたい本リストに遊郭関連の本が登場するのは高校生のころなのでけっこう長い間そういうところが好きなようだ。*1 かつて通っていた中高一貫校が吉祥寺にあって、ヨドバシ裏(近鉄裏というかつての通称で有名)は入っちゃいけないところだと思いながらもなんとなくのぞいてみたいような、少しわくわくしてしまう場所だった。

 

私がそういう繁華街とか遊郭跡とか赤線とか散歩するのが好きなのは、たぶん二つ理由があって一つはそうした場所が「日常の連続にある非日常」だからなんだと思う。なんじゃそれ感があるけど、「日常の連続にある非日常」は私の中でとても大事なキーワードになっている。私の好きなものはだいたいそれで、オーケストラ毎日地味に練習して年に何回か衣装着て舞台にあがるギャップがたまらないなと思うし、科学について知りたいのも私たちの日常生活を可能にしているのは科学技術なのに、科学というものが実は思っているより曖昧で常識ではとらえきれないというのが面白いからだ。

 

受験生のときZ会かなんかの現代文の問題集で、社会学者の山口昌男の『祝祭都市』がでてきた。広末保の「悪場所論」を下敷きにして、農村の村人と周縁の寺社に時折訪れる遊行の民との不可分の関係みたいなのを論じていたような気がする。(もうだいぶ前で忘れてしまった。)その文章を読んで以降、土地や街というものが無機質な色を持たないものではなく、様々な性格をもち、それぞれに影響し合いながらバランスを保つものなのだというイメージを持つようになった。悪場所があることによって日常が維持されるのである。(『祝祭都市』は絶版で高校生の私には手に入らなかったので、大学に入ってから真っ先に図書館で借りた。あまり内容は覚えていないが、「奈良盆地コスモロジー」という論文が面白かった。たしかに奈良の桜井市天理市のあたりは独特の雰囲気があって、旅行先として大好きである。)

 

それは置いておいて、もう一つの理由として、ただの無機質な土地に色がついて見えるというのがある。現在残っている、そういう治安の悪い土地の多くは何十年とか百年以上とかのスパンで風俗街であったり酒場であったりすることが多い。特に東京とかだと、そうやって長い間街として同じ性質を持ち続けているということはあまりない。街路は整理され、土地開発が進み、土地のにおいというのは表面的にしか感じられない。昔の街の性質が残っているところであっても、残そうという人工的な意志が感じられて興ざめしてしまうことがある。しかし、風俗街や赤線跡はそういう土地として保存されることもなく残ってしまっているという色が強いんじゃないかと思う。人はどんどん入れ替わっているのに、無機質な街になにか文化とか有機的な性格が宿っているのは面白いと思う。

 

どういう残り方をしているかも、場所によって異なる。遊郭で例を挙げるならば、東京の吉原は今風の(?)風俗店が集まる所になっている。行ったことないけど、大阪の飛田は100年前くらいから同じスタイルで営業しているらしい。京都の祇園は町家的な建物が綺麗に整い並んで観光スポットになっているが、裏に一歩入ると、怪しげなキャバクラやスナックが立ち並ぶ繁華街になっている。一方で、金沢のいわゆる茶屋街はかつての遊郭としての性質を完全に消し去った、フォトジェニックでザ・伝統文化な観光地化がなされている。金沢の茶屋街はメインの主計町茶屋街と東茶屋街から少し離れた西茶屋街に少しスナックを残すのみで、文化的な意味でのかつての面影はほとんどない。

 

これらの遊郭の中で一番”保存”されているのは金沢の茶屋街なのだろうけど、言ってしまえばかつて風俗店だった茶屋におしゃれな雑貨屋が入り、その間をレンタル着物を着た女の子たちが歩いているのは奇妙な光景に映る。観光客に向けてはその歴史はうまく隠されているし、少なくとも文化的な歴史は保存されていない。(とは言っても金沢は好き)

 

人間活動から自然発生的に生まれる文化は、保存されようとした時点で文化としては終わりなんじゃないかとはずっと思っていて、だからこそ保存されないくせに昔から残っちゃってる文化はやっぱり面白いと思う。大学入ったら都市論を勉強しようと思っていたけれど、結局叶いそうにないな。旅行しつつ、そういうことも勉強できたらいい。

 

ってここまでで1800字超書いてるんだけど、いったい私は何をしているのだろう......。

 

*1:今日散歩していて立ち寄った本屋で角田光代の現代語訳による『曽根崎心中』を見つけて、私がこういう場所を好きなのにははっきりとした理由があるのを思い出した。この『曽根崎心中』の現代語訳が出た時期、私は高校の古典の授業で近松門左衛門による元のものを読んでいた。教科書の注に、物語の舞台である遊郭や刑場のある地域が今の大阪府西成区と呼ばれるところであると書かれており、その当時話題にのぼっていた大阪都構想で再開発のターゲットとされているところであった。江戸の時代にそういう土地であったことが、今もそこを再開発されるべきであるような地区たらしめているということに、歴史を勉強するって大事なんだな、と強烈に感じたことを覚えている。その頃からその土地がどういう役割を持つ場所であるかを気にするようになった。2017/3/12

夏休みの勉強途中経過

院試の結果出て、8月入ってからは旅行に行ったり友達とお酒飲みに行ったりばかりしている。もう一つの院試まであと一か月になったのでそろそろ本腰を入れなければならないな。

 

4月あたりから真剣に勉強始めて、5月の末から教育実習で7月に至るまでわりとストイックにお酒もあまり飲まずにすごしていたら、お酒を全然飲めなくなった。サワー一杯とかで酔っぱらってしまうし、おなかが許す限り飲めていた日本酒も一合に達しないところで飲めなくなってしまう。コスパはいいけど、いいのか悪いのか......。

 

最近読んだものは、

N. R. Hanson "On the Symmetry Between Explanation and Prediction" 

細切れに読んでいたので、理解があまりよくない。卒論の一連の議論をしたあとに最後のまとめをする材料として使いたい。説明と予測の対称性を言うためには、量子力学とか統計力学の問題を解決しなきゃいけないみたいだけど、それって構造的に見て解決できるもんなんじゃないかなあと適当な見通しを立てている。

 

田口茂『現象学という思考』

去年あたりから指導教官に「現象学を勉強しなさい」と言われ続けていて、よくわかんなかったので勉強してなかったけど、現象学めっちゃだいじだわーと思った。田口先生は何回かお会いしたことがあって、おすすめのインドカレー店情報などを教えてもらっていたが、そんな話をしている場合ではなかった。去年あたりからのいろいろな経験で、現実に誠実に向き合うことが自分の中でのけっこう大きいテーマになっている。現象学はその方法としてめっちゃ使えそう。分析哲学はゆですぎてぱさぱさになった鶏肉とか、工事現場の灰色の鉄骨って感じがして、好かんなとずっと思っていた。分析哲学おいしくないし、つかみどころないじゃん、みたいな。薄いピンクとグレーがまだらになったような色合いで、ほんとにつかみどころがない。現象学は深緑色で、アボカドと落雁のあいのこみたいな食感がする。舌の上で、粉がほどけていくような食感なんだけど、アボカドみたいなぬったり感がある。深緑色のものはいい。チェロとかも深緑色だし。哲学を勉強していると、哲学的な可能性の上で議論しがちになるけど、現象学をやっていれば真正面から現実と付き合っていけそう。これは、科学について考えるときに忘れてはいけないことだ。一章での「確かさ」についての議論は、科学哲学における認識論の問題を考える上で使えそうと思った。野家啓一先生は現象学のすごい人らしいが、野家先生の現象学について書いていることも読んでみたい。三章の「本質」についての話は、形而上学上の普遍者についての議論と似ているようなかんじがして驚いた。中世の普遍論争とか全然知らないけど、それを経たあとだから同じような議論になってしまうのだろうか。卒論に使うと盛り込みすぎになっちゃうけど、今考えていることのヒントになりそうだから、残りの夏休みは現象学のこういうところも勉強しておきたい。

 

今読んでいるのはドレツキの "Law of Nature"と、ドイツ語の勉強にアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』。一番簡単らしい「文化産業」の章を読んでるけど、普通にめっちゃ難しいな。ドイツ語よくわかんないし。確率統計全然やってないやーー、べんきょうせねば......。

院試の結果がわかった

受かってました。とりあえずほっとしたけど、まだもう一つ受けるつもりで、どこの大学院に行くのか決められていない。そういうの大学院の試験だとあまりよくないのだと思うのだけど、試験の面接のときにどこ行くかまだ決められていない、と伝えたのを免罪符に少し悩みたい。ていうかどちらの学校に行っても、いい先生ばかりでいい研究できそうだなという感がしていて、困る。ほんとはまだもう一つ、未練のある学校もあって、試験日かぶっちゃったから諦めたけど、もう全部通うんじゃだめですか……?

 

でも、受かってみたら未来が見えてきてわくわくしてきた。院試の書類書く過程で、いままで言語化されてなかった自分のやりたいことが形になってきて、それに対する見通しも立てられてきた。

 

指導教官にもテンション上がっていろいろメールしてしまって、卒論はできるだけはやく仕上げて学部生のうちにもう一本かけたらいいね、ということになった。わくわくだな。

 

二本目は英語で、と先生はおっしゃっていたけれども、英語ほんとにできないからまずいかもな。二年生のときの英語のクラス分けテストも700人以上いる中で下から60位くらいだったし、英語はもっと勉強しなくちゃいけない。

院試の結果がわからない

今日はこの前受けた某大学院の二次試験の結果発表なのだけど、どこで発表なのかまったくわからない。ちょっとだけ、困った。

 

最近、認識論と存在論の区別めっちゃ大事じゃんと思いはじめている。今までどっちもよくわかんねえなってかんじだったけど、科学哲学の問いに答える上では、その区別をはっきりさせていないと結局無駄な議論をして終わってしまうだけなのかもしれないと思う。

 

例えば、自然法則と科学理論も存在論と認識論から考えるとうまく区別できるように思う。今まではこの二つの区別は程度問題なんだと思っていた。そう説明している科学哲学の教科書を読んだことがある。自然法則がより確からしい現象についての明文化で、科学理論はどちらかというと仮説に近いものだというものである。最近の私は、自然法則は世界の在り方を示していて、科学理論は世界についての私たちの認識を表したものなんじゃないかと感じている。だから、自然法則と科学理論を同列に扱うのはカテゴリーミステイクで、世界の側にある自然法則を人間が認識して定式化したものが科学理論ということになるのではないか。歴史的には、この二つの用語は人によってばらばらに用いられてきて、だからこそ程度問題のように捉えるのが一番それらしくなってしまうわけだけど、実際のところはこの区分けが可能なのではないだろうか。けっこうずっと自然法則と科学理論の違いがよくわからんくて、書いてある本もあまりないので困ってきたけど、そもそもそこちゃんと区別しないと科学哲学できなくない?とも思う。因果関係の実在を認めない哲学者が、法則って言うときって、なんなんだ。そういう人は科学理論か自然法則のどっちかに言い方統一すればよくない?あれってか自然法則と「万有引力の法則」とか言うときの法則って一緒なん?全然わかんねえな。

 

認識論と存在論の区別は、科学哲学上の合理主義と相対主義の対立においても大事だと思う。そもそも私は科学哲学上の合理主義とか相対主義とか言ったときになんの話なのかよくわかっていない。科学が累積的に進歩している、というのは合理主義の主張だと思うし、その反対は相対主義だ。科学哲学上の合理主義と相対主義の議論ってそこだけに限られるのだろうか。科学的真理があるかどうか、というのは合理主義だとあるんだと思うし(だから累積的に科学は進歩していくのだと主張できるのだ。)、相対主義だったらない(あれ、ほんとにそうかな?)。 科学的真理として措定されるものはいろいろ想定できるだろうけど、このとき認識論と存在論の区別が大事になってくる。科学的真理があるかどうか、という問いは存在論の問いである。科学的真理があるとして、それを人間が知ることができるかどうかは認識論の問題である。科学的真理はあるけれど、それを人間は完全には認識することはできない、としたときそれって合理主義なの?相対主義なの?どっちなんよーー!ていうか科学的真理ってなんなんだろう。なにかしらの現象についての科学的言明が一つに定まるってこと?複数の言明があって、どれも真というときは、科学的真理はないのだろうか。

 

ある現象を説明する科学的言明が一つに定まるとするのが合理主義で、相反する複数の言明がそれぞれに真っていうのが相対主義というのはどうだろうか。うまくいくかな?そんなことありえるのかな。相対主義の場合、結果に関して原因が複数考えられるという状況なら可能だと思われる。それは、ありえるかも。

 

とにかく、難しいことがいっぱいで困っちゃうな……。

 

夏休みは、今まで通りの勉強に加えて、ドイツ語と現象学と確率統計をやる予定。ぜったいやりたい。最近入門書を読み始めた現象学は、科学哲学における認識論的問題に関してかなりいいヒントになりそうな気がしてきている。わくわく🤗🤗🤗