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読書記録と雑感

読んだ本とか思ったこととかの記録用

わかってる顔したくないけど

ここのところ、観たい映画がいっぱいある。いや、いつもあるけど、特に観たい映画がいっぱいある。でも映画を観に行くのってすこしこわくて、もし観に行った映画が面白くなかったら私はその1000いくらかのお金と2時間くらいをむだにしてしまうのかと思うと、そのお金と時間で読める本を思い浮かべてしまう。

とにかく、『美しい星』だけは観に行かないと。3番目に好きな三島由紀夫の小説の翻案だし、暁子の役は大好きな橋本愛だし。いままで観た映画で橋本愛がでているものは、はずれだなって思ったのなかったから『美しい星』は観に行っても大丈夫だと思う。名作文学の現代での翻案で橋本愛というと、WOWWOWの6話立てのドラマ、『罪と罰』がよかった。橋本愛の役は老婆の立ち位置で、ラスコーリニコフ役の高良健吾との2ショットが美しい。

 

中学生のときに同級生だった子が主演をしている映画もいまやっているらしい。彼女とはそんなにしゃべったことなかったけど、印象に残っていることがある。授業中かなんかでグループワークをしているときに、「わかるわかるってみんなすぐ言うけどさ、わかるわけないじゃん」って、「人の事情とか気持ちなんてそんなわかるわけないし、そんな簡単に言うなよって思う」みたいなこと言ってた。言い古された当たり前なようなことだけど、中学生の口からでてくることにはっとしたし、ずいぶんとおとなびたことを言う子なんだなと思った記憶がある。

 

鷲田清一さんが書いてる朝日新聞のコラムに戸田山先生の言葉が載っていたらしい。

つまり、知らないことがあること自体を知らなかったわけだ。

実際戸田山先生がどういう文脈で書いているのかは知らないけれど、「無知の無知の知」って書いてあった。このメタ構造をうまく読み解けてなくて、私の言語能力はやっぱりけっこう低いのかもしれないと思う。

 

でも、書いてあったのが「無知の知」ではなく「無知の無知の知」でよかった。私は「無知の知」がほんとうに嫌い。嫌いというか、認めたくない。ほんっとうに悔しい。「哲学には答えがない」と同じくらいむり。素直に受け入れたくない言葉だな、とはじめてきいたときからずっと思い続けている。なんというか、あまりに有名になりすぎているこの言葉を認めると、一般常識(勉強するほど知識が増える)を裏切ること(勉強するほど知らないことが増えること)だけで終わってしまうような気がする。それでも言われてしまう言葉なのだとしたら、かなり学問を究めた人がある程度の充実感を伴って言ってほしい。知らないということを知ることだけで満足したくない。学問の世界に無駄な深遠さをかぶせてしまうだけのように思われてしまう。

勉強するほど知らないことがどれだけあるか知ることにはなるけど、知らないことはそのことを知らないと知る前からずっとある。知識はすでに存在していて、ただただそのことが自分に対して顕在化されるだけである。図書館でずらっと並んだ本棚を見て、この本をすべて読むことはできないのだと思い知らされ、本気で落ち込んだことがある。

 

「知らないこと」には二段階あると思っていて、とりあえず私の知らないことと、この知識を得ればこんなことがわかるというのはわかっているけど知らないことの二つがあるんじゃないか。前者だけじゃ正直どうもならないというか、使い物にならん、というかんじだけど、後者はだいじ。限りのある一人の人間には、限りのある知識しか得られないけど、だからこそ効率よく知識を扱えるとよい。

たとえば、私は統計の勉強をしたことないけど統計を勉強するとデータを適切に扱えるようになると知っている。韓国にどんな観光名所があるのか知らないけど韓国旅行のガイドブックを読めばどんなところを旅行すべきかわかるだろうということは知っている。知識の内容は知らなくても、その知識へのアクセスの仕方を知っているということって、勉強をしていく上ではけっこう大事なことなんじゃないかと思う。

 

学問や知識を必要以上にありがたがって、高尚で深遠なものとしてとらえる考え方、あまり好みではない。勉強いっぱいして頭が重い感じとか、いくら読んでもわからないいらいらとか、いっぱい寝て起きてもまだのこる頭のだるさとか、焦燥感で図書館でかばんいっぱいに本を借りてしまうのとか、自分を物理的にも精神的にも消耗させていくかんじは、もっとどろくさいように思う。すくなくとも私は素晴らしいものだから学問やってるわけじゃなくて、どうしても知りたいことがあるから勉強してるというつもりではいる、からこそ「無知の知」はめちゃくちゃくやしい。知らないこといっぱいあるな~で放っておかないことにしたい。

 

頭のいいふりしたくなっちゃって斜にかまえたこと言おうとする私とは、最近意識的に戦おうとしている。むかしからそういう傾向あるけど、やっぱ斜にかまえたこと言おうとしたり、自分ではなにも生み出してないくせに批評したり、そういうことしたくなってしまうのは、自分をえらそうに見せようとしてるからなのじゃ。泣きたくなるくらい勉強が足りないし、もっと謙虚に誠実にならないといけないです。いつもこういうことばっか言ってる気がするな、修行修行

ブーム乗り遅れブーム

日本には岸田繁という最高の音楽家がいるわけですが、岸田繁はブーム乗り遅れブームらしい。

 

私もブーム乗り遅れブーム、ブームどころか、なんでもかんでも一歩乗り遅れてやってくる。先生に授業で発言しなさいと言われるけれど、気になることはその日の夜くらいに「ああ、そういえば今日の授業で言ってた〇〇って××なのかなあ」とか「あれってどういう意味だったんだろう」とか頭の中にやっと沸いてくる。授業中に発言するのはむりだな。

 

人工知能の勉強しますって言うと「流行ってるもんね〜」って言われる。別に流行ってるからやるわけじゃないし……って思うけど、いまは第三次人工知能ブームらしい。一回めはパーセプトロンが提案されたのに始まるブーム、二回めはコネクショニズム、そして今回はディープラーニングの発明。

 

一回めのときも二回めのときも、それなりに哲学的な研究がなされた。でも、今回はまだあまり、倫理学を除いたら哲学的な研究はなされていない。がんばってそれをやるというおはなしです。

 

今のところの道筋は、生命であるところの人間がもってる知能と、道具である(?)人工知能の知能はどう違うのかということからなにかやりたいと思いちゅう。

 

論文読まなきゃいけないのにこんなこと書いてる

小説は読んだ瞬間からそのストーリーを忘れてしまって、本棚に入っている本の半分も内容を思い出せないように思う。

一方で、冒頭の部分だけはよく覚えている。たとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、音の描写から始まる。

飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蝿よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。

この最初のひと段落はよく覚えているのに、どんな内容だったかさっぱりわかんなくなってしまった。

 

今車内広告でてるプレイボーイは乃木坂46生田絵梨花ちゃんが表紙になっている。

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これは、本物の雑誌のほうの表紙だけど。

 

気になっているのはこのコピーで、「限りなく透明に近い美しさ」と書いてある。小さくて見えづらい……。

これは村上龍のデビュー作で直木賞受賞作の『限りなく透明に近いブルー』をもじったものなんだと思うんだけど、この違和感よ……。

 

限りなく透明に近いブルー』というタイトルはあまりにも有名で、さまざまなところで改変されているのを見かけてきた。うまいのはあまり見たことない。それに、こういう商業雑誌のプロが作ったコピーで下手なものが掲げられてるのは、ちょっとさむい。

 

しかし、ただの下手なもじりであるという以上にこのコピーには違和感があるような気がする。その理由として、いくつか仮説を立ててみた。

① 「美しさ」は名詞だが、「ブルー」(blue)は名詞と形容詞が同型であるため、形容詞的なイメージが強く違和感がある。

② 「美しさ」はより広い事柄を対象とする抽象的な言葉である。一方で「ブルー」は青色という限定された対象を指す言葉である。このため「美しさ」では「ブルー」を代替できない。

③ 「透明」も「ブルー」も色に関わる言葉である(透明は特定の色を指す言葉ではないが)。だからこの二つをペアにすることは整合的だが、「美しさ」が直接色を指し示すことはなく、ペアにすることはできない。

④ 「透明に近いブルー」は現実世界にありうる。「透明に近い美しさ」は現実世界に客観的には存在せず、意味をもたない場合があり、なんらかの比喩表現と考えるなど解釈を必要とする。

 

最初①だからかなって思ってたけど、④がもっともらしい気がしてきた。③はいまいちだな。

まあここらへんの理由が適当に組み合わさって、違和感になってるんでしょう。

 

クローズアップ現代坂本龍一がでてて、下の部屋から新曲の音が聴こえてくる。この家は音が本当によく響くな……。

正直なところ、村上龍の小説は読んでて消耗するのでそこまで好んで読まないのだけど、坂本龍一村上龍の共著になっている『モニカ』は面白かった。坂本は夢を見たら村上にその内容をファクスで送る。そこからインスピレーションを得て村上が小説を書く。それがまとまった短編集で、坂本の見た夢と村上の小説があまり関係なくて(でもどこかつながっていて)面白いです。

これから先のこと覚え書き

やらなきゃいけないこと、自分で気合いれてやんないとなんもできなくなっちゃうし、今のところの展望を書いておきたいです。

 

私が勉強をしてるのは「科学とはなにか」「人間が作った科学理論がなぜ世界についての真実を語るように思われるのか」「そもそも世界に自然法則的な一つの真実は存在してるのだろうか」ということを知りたいからで、科学哲学をやってるのはそうした疑問に一番近い学問だからだ。

学部の間はどうしたらそれを問えるのかを考えてきて、科学哲学の入門的なところを一通り勉強した。なんとなくの勉強の見通しも立った。

 

そうして勉強してる中で強く感じたのは、具体的な科学に関わらないとどうしても薄っぺらい内容になってしまうということ。科学哲学の中で科学哲学やってるなんてなんも意味がない。そんなことは高校生のころからわかってたし、高校の先生には科学哲学をやるにしてもとりあえずは理系の進路をとりなさいと言われてた。でも、科学哲学をやるために学部4年間理工系の学部にいるのは耐えらんないかな、というのと、あまり勉強ができなかったので理系の進路だと文系以上に受験勉強のつぶしが効かず、それでとりあえず文学部に入った。それになまけものだから、それわかってるくせにまったく勉強しなかったね。いつかはぶつかる問題だろうとは思ってきた。

 

なので修士ではもう少し具体的な科学に関わることを一生懸命やって、自分のつよみを作りたい。院の指導教官の先生は心の哲学では日本の第一人者ですごすぎる人なのだけど、その先生のもとで人工知能に関する研究を二年間みっちりやる。科学哲学の勉強も忘れずにこつこつ重ねていくつもり。

 

人工知能とはなんだか縁があって、学部三年のときに指導教官にだまされて連れてかれた三週間のサマースクールには、たくさんの人工知能学者がいて、人間の意識を人工知能で再現するにはどうしたらいいかをみんな考えていた。そのとき思ったのは、意識についての科学とかいう未知の科学ができて、それが科学と認められたとき、それがどのようなものであるのか考えるのは大事なことだなということだ。人工知能について考えることは人間について考えることになるし、そういうところもなんだかわくわくするな。

 

修士出て、その上に進めそうだったら、博士は科学哲学にもどって、とにかく自分のテーマを今度はしっかりやる。修士の間も科学哲学の勉強はちゃんとやる。特に科学的実在論論争はしっかり追っておきたい。分析形而上学もそれなりに使いこなせるようにして議論に使えるようにしときたい。

 

ここから先は、なんかあれだけど、研究者になりたいの?ってきかれて素直にうんとは答えられない。研究者って職業につきたいとも、大学の先生になりたいとも思ったことはあんまりない。私は自分の知りたいことをどうしても知りたくて、それのために学問をやりつづけるために、たぶん一番都合がいいのが大学で勉強続けて学位取ってそういうコースに進むことなのかもと思って、いまこうしてるけど。いろいろ状況はきびしいし、社会的にも制度的にもこれからもっときびしくなっていくと思うし。

 

前からじわじわ思っているのは、博士とかもしとって研究続けたいなってなったら、喫茶店をやりたい(唐突)。

場所はどこか地方都市がいいなー。すこしさびれた商店街の一角で、でも明るいお店がいい。朝6時くらいに起きて、お店開けて自分も朝ごはん食べて、どうせ午前中はそんなにお客さん来ないから自分の勉強をする。たまに来たお客さんにはコーヒーいれてトースト焼いてあげる。12時になったらちゃんとおいしいランチを出す。

夕方は学校が終わった子どもたちが来れるようにする。ランドセルは一度家においてから来ないとだめ。ジュース1杯100円とか、あるいは「保留コーヒー」みたいに余裕のある大人が払っといてくれるの。お店には広いテーブル置いて、宿題ができるようにする。家に帰っても一人になってしまう子どもに勉強を教えてあげるのだ。

週に一回くらいは夜にもお店を開けてお酒を飲めるようにする。おいしい日本酒とおいしいおつまみ。しあわせだなーー。

 

どうなっていくのかはよくわからないけれど、とにかく素直に驚いて感動することと、誠実に物事に向き合って行くことだけは忘れずに、頑張っていきたいです。

 

 

近況

自分は女の子を愛でて喜ぶタイプではないと思っていたのだけど、いま深刻な女の子不足に陥っていて毎日の通学の電車の中で可愛い女の子の画像を検索しまくっている。

今までは女の子の多いところにいたので無意識のうちに足りていたようだ。月曜から学校が始まって、3日目くらいからはひたすら、ふわふわな女の子に囲まれたい、パステルカラーの女の子を見たい、と心の中の人が言っている。

 

もうどの授業にでても、研究室にいてもひたすら男の子やら男の人しかいない。一応研究室の先輩に何人か女性いるそうなんだけど、最初のガイダンスぐらいでしか遭遇してない。キャンパス歩いてても目測2〜3割しか女の子がいない気がする。

 

私は、可愛いブラウスにシフォンスカートはいて髪の毛くるくるしてまつ毛ぱちっとした可愛い女の子とふれあいたいんだよおぉ〜!!!!

 

その反動なのかなんなのかわからないが、自分は気合いれて学校に行くようになった。アイライン毎日引いてるし、マスカラも丁寧に塗るようになった。下まぶたにもちゃんとハイライトいれてる。今日なんていつも全部まとめてしまうのに耳の前に髪出してアイロンでカールさせてるし……。ワンピースもこの前ベトナムで買ってきたテーラーメイドのめっちゃ可愛いやつ。ベトナム人ありがとう……。

 

でもその報告する相手がいない!!「今日気合いれてんやで〜」とか見せびらかしたい!!女の子としゃべりたい!!

いままではサークルも学校も女の子がいっぱいいたから、女の子見放題だったの!!見わたす限りの女の子!!すごい!!

授業始まってから学校でしゃべった女の人、事務の人と先生とたまたま事務で遭遇した院入る前からの友達だけだわ。

 

女の子という存在の大きさに、いまになって気づいてしまったよ……。大切なものはなくしてからわかるんだね……。

 

女の子……女の子と会話したい……。いやもう会話できなくてもいいから、とぅるとぅるでふわふわの女の子を見たい……。なんかほんとそろそろアイドルに目覚めそう…………

ちょっと大人になる

ユーミンの「春よ、来い」はあまり春っぽい歌ではないよな、と思っていたけれど、「春よ、まだ見ぬ春」とかうたってるから春にうたう歌というわけではないのかもしれない。でも春になると、いつもなんとなく頭の中でうたってしまう。

母は若い頃に八王子の荒井呉服店で着物と着物を着るための道具一式を揃えたので、私の卒業式の準備をしているときは荒井呉服店の袋をたくさん開けた。荒井呉服店、ユーミンの実家である。

 

春は記憶が忙しい季節だ。寒くて息をひそめてた木や土が、温度が上がってくるにつれてにおいたつようになり、花も咲いて、玄関を開けると空気の色が違って見える。(においに色が見えるというのはたのしいですよ。)

 

本当なのか俗説なのかはわからないが、嗅覚と記憶は脳の近いところで機能しているらしく、だからにおいには記憶が宿りやすいらしい。春になると私はいつも、小さい頃のことを思い出す。

 

2年前に建て替えるまで、我が家の庭はもっと狭かった。だけれど、幾種類かのばらや、ハーブ、あとはなんかよくわからない植物とか、いろいろと植わっていて、休日になると両親はせっせと世話をしていた。

小学校低学年くらいの私もその横にしゃがみ込んで、オオイヌノフグリヒメオドリコソウをせっせと摘んで花束にしたり、アリの巣をじっと観察したりしていた。

 

いま、春のにおいをかいで思い出すのはそのときに見ていた景色で、地面から数十cmのしゃがみこんだ私から見える世界だ。

思い返してみれば、いまの私なんかよりこの頃の私のほうが世の中のいろんなことに詳しかった。花の名前とか、虫の捕まえ方とか、あの頃知っていたけど、いまもう忘れてしまったな、ということはいっぱいある。

 

今日は寒い。季節をとかす雨なのだろうか。

森を見て木を見る、という話

某後輩(私のブログ読んでるらしい)にアマゾンプライムのビデオがやばすぎる、と言われて申し込んだ。やばい。去年の今頃はhuluに加入していたけど、そっちより全然いいかも。教えてくれてありがとう(私信)。

 

三浦しをんが『神去なあなあ日常』という小説を書いている。三浦しをんは高校生の頃よく読んでいたので、これもその流れで読んでた。それを映画化したのが一昨年だかその前くらいに染谷将太(最高)が主演した『Wood Job!』というやつで、大学受験に失敗した男の子が林業に入るという話。これずっと観たかったんだけど、ビデオ屋さん行くとなに観たかったのか忘れてしまう人間なので、アマゾンプライムに入ってなかったら観なかったと思う。

 

映画の中で、初めて競りに行った勇気(染谷将太)が、あまりに木が高く売れるのに驚いて「山に生えてる木、全部切って売っちゃいましょうよ〜!!」とか言う場面がでてくる。一本50万円くらい。

 

それに対して親方は、山にある木は先祖たちが植えて育ててきたもので、今の自分たちが植えて育てている木も自分たちで切って売ることはない。今自分たちの利益を求めて木をたくさん切り、売ってしまうことは子孫へ森を残さないことになる。今やっている仕事が成功するかどうかは自分たちにはわからず、まだ見ぬ子孫たちだけがその結果を知るのだ的なことを言う(正確な台詞覚えてない)。

 

林業をテーマにして物語を書くとしたら、誰でも登場させるだろう、いかにもありそうなエピソード。

 

学問をやることになんで国がお金を出さなくてはならないのだろう、ということをさいきんずっと考えている。

 

今や、全世界的にそうなんだけども、その中でも特にこの国は学問をやる人間にあまり優しくない。かなり順調に研究者としての道を歩んだとしても定職につくのは一般的に30歳すぎになるが、それまでは4年制大学新卒の初任給に毛が生えた程度の給料しかもらえない。それすらだめだと(かなりの人がそうだ)、アルバイトしつつ、研究に励むということになる。

 

研究者の人たちは、研究環境の待遇の悪さを声高に訴えている。研究者個人に対しての待遇も悪いし、大学に与えられる研究費とか、なんかよくわかんないけど、とにかく研究環境への必要な投資が国から充分になされていないらしい。

 

そもそもなんで、国が、国民から集めた税金を学問に使わなきゃいけないんだろうか。ずっとよくわかんなかった。技術開発に使えるようなもの、とか、医療に応用できる、とか役立ちそうなことに関する研究に投資するならまだしも、役立たない研究にお金あげたってねえ。

 

文学とか、芸術とか、哲学とか、自然科学の分野だって基礎研究だったら、なんの役に立つのかわからないものが多い。いまの学問についての社会的な状況でとくに窮地に立たされているのはこういう研究。

 

ここで、考えなくちゃならないのは、役に立つってどういうことか、ということと、学問は役に立つからやるんだろうか、ということだ。

 

ここまで言ってきた状況のなかで「役に立つ」という言葉が使われるのは、主にお金を稼ぐのに役立つという意味になると思う。人間が生きていくのに必要って意味ではない。だけど、人間が生きていくのには必要なのに、お金にならないことっていっぱいある。

 

人間が生きていくのに一番近いところにはお金が使われない、みたいなことが言われているのを聞いたことがある。たとえば、保育とか、学校教育とか、介護とかの現場の待遇は悪い。いろいろある職業のなかでも人間が生きていくために基本的で必要な仕事なのに。なんでなんだろうと、考えたときに、当たり前すぎることにはお金が落とされないからってことなのかな、とも思った。

 

人文学って、字面が示しているように、人間についての学問である。役立たない学問の筆頭であるかのように言われる文学研究は、人間の心とか内面について深い探究をしている。文学研究がなかったら私たちは自分に一番近いはずの自分の心というものについて、今ほどには知ることができなかったかもしれない。でも自分の心を知っていることは当たり前なように思われるから、私たちは改めてその研究の価値について考えることはしない。

 

私は、学問は人間にとって必要なものだからあるのだと思う。でも必要だからといってすぐにお金になるとは限らない。当たり前すぎるから価値がないように思われてしまうのかもしれないし、あるいはお金になるまでにとても長い時間がかかってしまうからかもしれない。教育だって、成果が実るまでにはとてつもなく長い時間が必要だ。

 

いますぐにお金になるわけじゃないし、必ずしもお金になるとは限らない、だけれど、絶対に必要なものもある。そういうものを守っていこうという決断をできるのは、人間が一人ですべて必要なことをやる生き物だからでなく社会を形成して役割分担をして生きている生き物だからであって、それをうまく利用してまだ結果のわからないものに想像力を働かせて、理性的な決断をしていくことが、教養のある人間のなせることなのではないかと思う。

 

とにかく、自分が生きているのかどうかわからない未来のために学問を一生懸命やって育てることを頑張りたいなーとかなんとなく思う。

 

大学院にはいるための手続きの書類がめんどくさすぎてぶちぎれてる。