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読書記録と雑感

読んだ本とか思ったこととかの記録用

論文読まなきゃいけないのにこんなこと書いてる

小説は読んだ瞬間からそのストーリーを忘れてしまって、本棚に入っている本の半分も内容を思い出せないように思う。

一方で、冒頭の部分だけはよく覚えている。たとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、音の描写から始まる。

飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蝿よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。

この最初のひと段落はよく覚えているのに、どんな内容だったかさっぱりわかんなくなってしまった。

 

今車内広告でてるプレイボーイは乃木坂46生田絵梨花ちゃんが表紙になっている。

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これは、本物の雑誌のほうの表紙だけど。

 

気になっているのはこのコピーで、「限りなく透明に近い美しさ」と書いてある。小さくて見えづらい……。

これは村上龍のデビュー作で直木賞受賞作の『限りなく透明に近いブルー』をもじったものなんだと思うんだけど、この違和感よ……。

 

限りなく透明に近いブルー』というタイトルはあまりにも有名で、さまざまなところで改変されているのを見かけてきた。うまいのはあまり見たことない。それに、こういう商業雑誌のプロが作ったコピーで下手なものが掲げられてるのは、ちょっとさむい。

 

しかし、ただの下手なもじりであるという以上にこのコピーには違和感があるような気がする。その理由として、いくつか仮説を立ててみた。

① 「美しさ」は名詞だが、「ブルー」(blue)は名詞と形容詞が同型であるため、形容詞的なイメージが強く違和感がある。

② 「美しさ」はより広い事柄を対象とする抽象的な言葉である。一方で「ブルー」は青色という限定された対象を指す言葉である。このため「美しさ」では「ブルー」を代替できない。

③ 「透明」も「ブルー」も色に関わる言葉である(透明は特定の色を指す言葉ではないが)。だからこの二つをペアにすることは整合的だが、「美しさ」が直接色を指し示すことはなく、ペアにすることはできない。

④ 「透明に近いブルー」は現実世界にありうる。「透明に近い美しさ」は現実世界に客観的には存在せず、意味をもたない場合があり、なんらかの比喩表現と考えるなど解釈を必要とする。

 

最初①だからかなって思ってたけど、④がもっともらしい気がしてきた。③はいまいちだな。

まあここらへんの理由が適当に組み合わさって、違和感になってるんでしょう。

 

クローズアップ現代坂本龍一がでてて、下の部屋から新曲の音が聴こえてくる。この家は音が本当によく響くな……。

正直なところ、村上龍の小説は読んでて消耗するのでそこまで好んで読まないのだけど、坂本龍一村上龍の共著になっている『モニカ』は面白かった。坂本は夢を見たら村上にその内容をファクスで送る。そこからインスピレーションを得て村上が小説を書く。それがまとまった短編集で、坂本の見た夢と村上の小説があまり関係なくて(でもどこかつながっていて)面白いです。

これから先のこと覚え書き

やらなきゃいけないこと、自分で気合いれてやんないとなんもできなくなっちゃうし、今のところの展望を書いておきたいです。

 

私が勉強をしてるのは「科学とはなにか」「人間が作った科学理論がなぜ世界についての真実を語るように思われるのか」「そもそも世界に自然法則的な一つの真実は存在してるのだろうか」ということを知りたいからで、科学哲学をやってるのはそうした疑問に一番近い学問だからだ。

学部の間はどうしたらそれを問えるのかを考えてきて、科学哲学の入門的なところを一通り勉強した。なんとなくの勉強の見通しも立った。

 

そうして勉強してる中で強く感じたのは、具体的な科学に関わらないとどうしても薄っぺらい内容になってしまうということ。科学哲学の中で科学哲学やってるなんてなんも意味がない。そんなことは高校生のころからわかってたし、高校の先生には科学哲学をやるにしてもとりあえずは理系の進路をとりなさいと言われてた。でも、科学哲学をやるために学部4年間理工系の学部にいるのは耐えらんないかな、というのと、あまり勉強ができなかったので理系の進路だと文系以上に受験勉強のつぶしが効かず、それでとりあえず文学部に入った。それになまけものだから、それわかってるくせにまったく勉強しなかったね。いつかはぶつかる問題だろうとは思ってきた。

 

なので修士ではもう少し具体的な科学に関わることを一生懸命やって、自分のつよみを作りたい。院の指導教官の先生は心の哲学では日本の第一人者ですごすぎる人なのだけど、その先生のもとで人工知能に関する研究を二年間みっちりやる。科学哲学の勉強も忘れずにこつこつ重ねていくつもり。

 

人工知能とはなんだか縁があって、学部三年のときに指導教官にだまされて連れてかれた三週間のサマースクールには、たくさんの人工知能学者がいて、人間の意識を人工知能で再現するにはどうしたらいいかをみんな考えていた。そのとき思ったのは、意識についての科学とかいう未知の科学ができて、それが科学と認められたとき、それがどのようなものであるのか考えるのは大事なことだなということだ。人工知能について考えることは人間について考えることになるし、そういうところもなんだかわくわくするな。

 

修士出て、その上に進めそうだったら、博士は科学哲学にもどって、とにかく自分のテーマを今度はしっかりやる。修士の間も科学哲学の勉強はちゃんとやる。特に科学的実在論論争はしっかり追っておきたい。分析形而上学もそれなりに使いこなせるようにして議論に使えるようにしときたい。

 

ここから先は、なんかあれだけど、研究者になりたいの?ってきかれて素直にうんとは答えられない。研究者って職業につきたいとも、大学の先生になりたいとも思ったことはあんまりない。私は自分の知りたいことをどうしても知りたくて、それのために学問をやりつづけるために、たぶん一番都合がいいのが大学で勉強続けて学位取ってそういうコースに進むことなのかもと思って、いまこうしてるけど。いろいろ状況はきびしいし、社会的にも制度的にもこれからもっときびしくなっていくと思うし。

 

前からじわじわ思っているのは、博士とかもしとって研究続けたいなってなったら、喫茶店をやりたい(唐突)。

場所はどこか地方都市がいいなー。すこしさびれた商店街の一角で、でも明るいお店がいい。朝6時くらいに起きて、お店開けて自分も朝ごはん食べて、どうせ午前中はそんなにお客さん来ないから自分の勉強をする。たまに来たお客さんにはコーヒーいれてトースト焼いてあげる。12時になったらちゃんとおいしいランチを出す。

夕方は学校が終わった子どもたちが来れるようにする。ランドセルは一度家においてから来ないとだめ。ジュース1杯100円とか、あるいは「保留コーヒー」みたいに余裕のある大人が払っといてくれるの。お店には広いテーブル置いて、宿題ができるようにする。家に帰っても一人になってしまう子どもに勉強を教えてあげるのだ。

週に一回くらいは夜にもお店を開けてお酒を飲めるようにする。おいしい日本酒とおいしいおつまみ。しあわせだなーー。

 

どうなっていくのかはよくわからないけれど、とにかく素直に驚いて感動することと、誠実に物事に向き合って行くことだけは忘れずに、頑張っていきたいです。

 

 

近況

自分は女の子を愛でて喜ぶタイプではないと思っていたのだけど、いま深刻な女の子不足に陥っていて毎日の通学の電車の中で可愛い女の子の画像を検索しまくっている。

今までは女の子の多いところにいたので無意識のうちに足りていたようだ。月曜から学校が始まって、3日目くらいからはひたすら、ふわふわな女の子に囲まれたい、パステルカラーの女の子を見たい、と心の中の人が言っている。

 

もうどの授業にでても、研究室にいてもひたすら男の子やら男の人しかいない。一応研究室の先輩に何人か女性いるそうなんだけど、最初のガイダンスぐらいでしか遭遇してない。キャンパス歩いてても目測2〜3割しか女の子がいない気がする。

 

私は、可愛いブラウスにシフォンスカートはいて髪の毛くるくるしてまつ毛ぱちっとした可愛い女の子とふれあいたいんだよおぉ〜!!!!

 

その反動なのかなんなのかわからないが、自分は気合いれて学校に行くようになった。アイライン毎日引いてるし、マスカラも丁寧に塗るようになった。下まぶたにもちゃんとハイライトいれてる。今日なんていつも全部まとめてしまうのに耳の前に髪出してアイロンでカールさせてるし……。ワンピースもこの前ベトナムで買ってきたテーラーメイドのめっちゃ可愛いやつ。ベトナム人ありがとう……。

 

でもその報告する相手がいない!!「今日気合いれてんやで〜」とか見せびらかしたい!!女の子としゃべりたい!!

いままではサークルも学校も女の子がいっぱいいたから、女の子見放題だったの!!見わたす限りの女の子!!すごい!!

授業始まってから学校でしゃべった女の人、事務の人と先生とたまたま事務で遭遇した院入る前からの友達だけだわ。

 

女の子という存在の大きさに、いまになって気づいてしまったよ……。大切なものはなくしてからわかるんだね……。

 

女の子……女の子と会話したい……。いやもう会話できなくてもいいから、とぅるとぅるでふわふわの女の子を見たい……。なんかほんとそろそろアイドルに目覚めそう…………

ちょっと大人になる

ユーミンの「春よ、来い」はあまり春っぽい歌ではないよな、と思っていたけれど、「春よ、まだ見ぬ春」とかうたってるから春にうたう歌というわけではないのかもしれない。でも春になると、いつもなんとなく頭の中でうたってしまう。

母は若い頃に八王子の荒井呉服店で着物と着物を着るための道具一式を揃えたので、私の卒業式の準備をしているときは荒井呉服店の袋をたくさん開けた。荒井呉服店、ユーミンの実家である。

 

春は記憶が忙しい季節だ。寒くて息をひそめてた木や土が、温度が上がってくるにつれてにおいたつようになり、花も咲いて、玄関を開けると空気の色が違って見える。(においに色が見えるというのはたのしいですよ。)

 

本当なのか俗説なのかはわからないが、嗅覚と記憶は脳の近いところで機能しているらしく、だからにおいには記憶が宿りやすいらしい。春になると私はいつも、小さい頃のことを思い出す。

 

2年前に建て替えるまで、我が家の庭はもっと狭かった。だけれど、幾種類かのばらや、ハーブ、あとはなんかよくわからない植物とか、いろいろと植わっていて、休日になると両親はせっせと世話をしていた。

小学校低学年くらいの私もその横にしゃがみ込んで、オオイヌノフグリヒメオドリコソウをせっせと摘んで花束にしたり、アリの巣をじっと観察したりしていた。

 

いま、春のにおいをかいで思い出すのはそのときに見ていた景色で、地面から数十cmのしゃがみこんだ私から見える世界だ。

思い返してみれば、いまの私なんかよりこの頃の私のほうが世の中のいろんなことに詳しかった。花の名前とか、虫の捕まえ方とか、あの頃知っていたけど、いまもう忘れてしまったな、ということはいっぱいある。

 

今日は寒い。季節をとかす雨なのだろうか。

森を見て木を見る、という話

某後輩(私のブログ読んでるらしい)にアマゾンプライムのビデオがやばすぎる、と言われて申し込んだ。やばい。去年の今頃はhuluに加入していたけど、そっちより全然いいかも。教えてくれてありがとう(私信)。

 

三浦しをんが『神去なあなあ日常』という小説を書いている。三浦しをんは高校生の頃よく読んでいたので、これもその流れで読んでた。それを映画化したのが一昨年だかその前くらいに染谷将太(最高)が主演した『Wood Job!』というやつで、大学受験に失敗した男の子が林業に入るという話。これずっと観たかったんだけど、ビデオ屋さん行くとなに観たかったのか忘れてしまう人間なので、アマゾンプライムに入ってなかったら観なかったと思う。

 

映画の中で、初めて競りに行った勇気(染谷将太)が、あまりに木が高く売れるのに驚いて「山に生えてる木、全部切って売っちゃいましょうよ〜!!」とか言う場面がでてくる。一本50万円くらい。

 

それに対して親方は、山にある木は先祖たちが植えて育ててきたもので、今の自分たちが植えて育てている木も自分たちで切って売ることはない。今自分たちの利益を求めて木をたくさん切り、売ってしまうことは子孫へ森を残さないことになる。今やっている仕事が成功するかどうかは自分たちにはわからず、まだ見ぬ子孫たちだけがその結果を知るのだ的なことを言う(正確な台詞覚えてない)。

 

林業をテーマにして物語を書くとしたら、誰でも登場させるだろう、いかにもありそうなエピソード。

 

学問をやることになんで国がお金を出さなくてはならないのだろう、ということをさいきんずっと考えている。

 

今や、全世界的にそうなんだけども、その中でも特にこの国は学問をやる人間にあまり優しくない。かなり順調に研究者としての道を歩んだとしても定職につくのは一般的に30歳すぎになるが、それまでは4年制大学新卒の初任給に毛が生えた程度の給料しかもらえない。それすらだめだと(かなりの人がそうだ)、アルバイトしつつ、研究に励むということになる。

 

研究者の人たちは、研究環境の待遇の悪さを声高に訴えている。研究者個人に対しての待遇も悪いし、大学に与えられる研究費とか、なんかよくわかんないけど、とにかく研究環境への必要な投資が国から充分になされていないらしい。

 

そもそもなんで、国が、国民から集めた税金を学問に使わなきゃいけないんだろうか。ずっとよくわかんなかった。技術開発に使えるようなもの、とか、医療に応用できる、とか役立ちそうなことに関する研究に投資するならまだしも、役立たない研究にお金あげたってねえ。

 

文学とか、芸術とか、哲学とか、自然科学の分野だって基礎研究だったら、なんの役に立つのかわからないものが多い。いまの学問についての社会的な状況でとくに窮地に立たされているのはこういう研究。

 

ここで、考えなくちゃならないのは、役に立つってどういうことか、ということと、学問は役に立つからやるんだろうか、ということだ。

 

ここまで言ってきた状況のなかで「役に立つ」という言葉が使われるのは、主にお金を稼ぐのに役立つという意味になると思う。人間が生きていくのに必要って意味ではない。だけど、人間が生きていくのには必要なのに、お金にならないことっていっぱいある。

 

人間が生きていくのに一番近いところにはお金が使われない、みたいなことが言われているのを聞いたことがある。たとえば、保育とか、学校教育とか、介護とかの現場の待遇は悪い。いろいろある職業のなかでも人間が生きていくために基本的で必要な仕事なのに。なんでなんだろうと、考えたときに、当たり前すぎることにはお金が落とされないからってことなのかな、とも思った。

 

人文学って、字面が示しているように、人間についての学問である。役立たない学問の筆頭であるかのように言われる文学研究は、人間の心とか内面について深い探究をしている。文学研究がなかったら私たちは自分に一番近いはずの自分の心というものについて、今ほどには知ることができなかったかもしれない。でも自分の心を知っていることは当たり前なように思われるから、私たちは改めてその研究の価値について考えることはしない。

 

私は、学問は人間にとって必要なものだからあるのだと思う。でも必要だからといってすぐにお金になるとは限らない。当たり前すぎるから価値がないように思われてしまうのかもしれないし、あるいはお金になるまでにとても長い時間がかかってしまうからかもしれない。教育だって、成果が実るまでにはとてつもなく長い時間が必要だ。

 

いますぐにお金になるわけじゃないし、必ずしもお金になるとは限らない、だけれど、絶対に必要なものもある。そういうものを守っていこうという決断をできるのは、人間が一人ですべて必要なことをやる生き物だからでなく社会を形成して役割分担をして生きている生き物だからであって、それをうまく利用してまだ結果のわからないものに想像力を働かせて、理性的な決断をしていくことが、教養のある人間のなせることなのではないかと思う。

 

とにかく、自分が生きているのかどうかわからない未来のために学問を一生懸命やって育てることを頑張りたいなーとかなんとなく思う。

 

大学院にはいるための手続きの書類がめんどくさすぎてぶちぎれてる。

卒論の感想

どうでもいいことばっか書いてるけど、一応勉強の記録用だから......

 

いろいろと忙しくしていたのがひと段落したので、卒論のことを振り返る心の余裕ができた。

卒論は心配していたほどは、ひどいものにならなくてよかったです。

先生方には、「まあ学部生としてはよく書けてる方なんじゃないの」的なことを言われて、そりゃ、ほとんどの学部生が就職する中で哲学続けてこうとしてるんだからよく書けてる方じゃないと困るわけだけど。

 

だけども、ひっかかっているところもあって、主査というかずっと私のことを指導し続けてくれていた先生はおおむね良い評価をしていてくれてはいるものの(ていうか先生は甘いから、ほんとうのところどうなのかはよくわからない)、なんかおもしろみに欠けるっていう反応で、それは悔しいところ。

 

先生は、ゼミとか入る前のまだ個人的にそんな知っているわけではない頃から私のことをよく気にかけてくれていた。先生の哲学概論の授業では何回かに一回、授業内のレポート課題が出て、知識の記述じゃなくて、自分の考えを書かせるもので、次の週の授業で良いレポートを書いた人の名前を発表する。これは自慢だけど、私の名前はいつもそこで挙がっていた。いつも教室の最前列に座って(先生のことめっちゃ好きだから)、だけど授業の開始直後からいつもぐっすり寝てた(授業難しいから)私だったが、とにかくそのレポートだけはいつも一生懸命書いていた。

私がいつもそこで名前を呼ばれたのは、優秀とかまじめだからではなく、単純に私が哲学的に考えるということに向いているからだと思う。知識は全くないけど、哲学的に考えるということには知識はあまり関係ない。そういう適性があるところは私の強み、というか、大学で勉強してきた今までの自分を見ても、大学院に受かった要因と思われるところを考えても、そこしか強みがない。もともと勉強に向いてないし、哲学の知識全然ないし、頭悪いし、ものごとを理解するまでに恐ろしく時間がかかる。こういう、研究をしていくためにかなり大切な適性が私には大幅に欠けている。たぶん、大学で一生懸命勉強している人たちは、私がまったくもっていないこういう適性に秀でた人が大多数なのだと思う。

だから、そういう意味で、そういう適性がないのに、ただ哲学的に考えをこねくりまわすのが得意というだけをよりどころにそれなりに勉強頑張ってやりたい学生ということで、先生には面白がられてきた。

 

卒論は、そういう面白みのまったくない論文になった。事実の羅列というか、たぶん誰でも書けるような論文。先生には「サーベイ論文としてならどっかの雑誌に出せるって感じですよ」って言われた。私に対するコメントとしてはあまりよくない評価のコメント、先生もそれを意識して言っていたと思う。

 

でも卒論を書く中で気づいたのは、私が今までやっていたようなテクニカルな思考の使い方は、ちゃんとした内容の哲学研究ではとても難しいということだった。難しいというのは、そうした飛び道具を使うにはそれなりの材料が必要であるという意味で、ちゃんとした哲学研究で、飛び道具使うには、知識の積み重ねが必要なのだ。今までの私のやり方を続けられるほど、私には知識がなかったし、思い返してみれば知識を仕入れようともしてこなかった。

 

ここでそのことに気付けたのはとてもよかったと思う。修士の二年間は自分の基礎を作る二年間にしたいし、そもそも科学哲学とかいう空虚な議論になりがちな分野でどうやって中身をしっかりさせていくのかというよりどころを見つけられるようにしたい。ほんとうはこれは学部生のときにやるべきことなのだけど。

 

卒論の出来は悔しいものだけど、だからこそ次につながるものがあると思って、がんばります。

 

 

買い物たのしい

なんかけっこう最近は、善くありたい、とかそういうことを考える。だからといって、積極的に善いことをするのも苦手で、たとえばボランティアとかはこそばゆくなってどうにもできない。

 

誕生日に鞄を買ってもらった。私はいつもリュックしか背負わないけど、女子大生とかOLとかがもってるような、書類が入るくらいの大きさの手で持つ鞄。さすがにどこにもかしこにもリュックで行っていい年頃ではなくなってしまってきたし、もう大学も卒業するし。

鞄を買うならここで、とはもうずっと決めていて、そこで買ってもらった。発展途上国に工場を作って、そこで生産して、フェアトレードで輸入しているブランドがある。たぶんそこまでなら、途上国支援としてけっこうそういうのありがちだなってかんじだけど、私がいいな、って思ったのは、そのブランドの創業理念が「途上国から世界に通用するブランドをつくる」となっているところなのだ。実際、デパートに店舗があって商品が並べられていても、ほかのお店と遜色ないくらいにちゃんとしてる。質の良い本革で、作りもしっかりしている。デザインもおしゃれだし、機能性もそれなりにいい。途上国支援とかそういう背景なしに、商品としてちゃんと価値のあるものを作っているというところが甘えがないかんじがして、かっこいいなと思った。

 

そういう話で言えば、最近は吉祥寺のマジェルカという雑貨屋さんもよく行く。このお店は一見普通の雑貨屋さんだけど、扱っている製品は全部、障害のある人が作ったものなのだ。障害のある人が働く作業所で作られたものって、ださくて使わないだろうけど付き合いで買うようなものというイメージがあった。だけどマジェルカはおしゃれだし、実用的で、普通にほしいと思うものを売っている。やっぱそういうのかっこいいと思う。

 

化粧品も、オーガニックだの無添加だのそういうものを使っている。肌が弱くて、薬局とかで売ってるような化粧品が合わないのが一番の理由ではあるけど、動物実験をしてないというのも大きい。(動物実験は嫌うくせに、皮革製品を使うあたりにまだ私の矛盾があるっちゃあるのだけど)

 

わざわざ善いことをするのは、なんか性に合わないというか、そこまでいい人じゃないし、たぶんやっても続かないんだけど、自分に必要なものをどう選択するかというのはそんなにむずかしいことじゃない。経済活動が社会を作ってるなら、善いことをしているようなところにお金をまわしていけば、結果的に善い社会になるんじゃないかなという気もする。自分が稼いだお金が、どういうところに流れていくのかにも責任を持ちたい。

 

そういう気持ちと、本当に実用的なものを売っている善い商売をしているところがうまくマッチしてると嬉しい。それに善いことは継続されることで意味をなすけど、物事を継続するのはとても大変だ。だから実用的であるとか経済上の利があるということは、継続がストレスなくできるという意味ではとても大事なことだなとも思う。