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読書記録と雑感

読んだ本とか思ったこととかの記録用

森を見て木を見る、という話

某後輩(私のブログ読んでるらしい)にアマゾンプライムのビデオがやばすぎる、と言われて申し込んだ。やばい。去年の今頃はhuluに加入していたけど、そっちより全然いいかも。教えてくれてありがとう(私信)。

 

三浦しをんが『神去なあなあ日常』という小説を書いている。三浦しをんは高校生の頃よく読んでいたので、これもその流れで読んでた。それを映画化したのが一昨年だかその前くらいに染谷将太(最高)が主演した『Wood Job!』というやつで、大学受験に失敗した男の子が林業に入るという話。これずっと観たかったんだけど、ビデオ屋さん行くとなに観たかったのか忘れてしまう人間なので、アマゾンプライムに入ってなかったら観なかったと思う。

 

映画の中で、初めて競りに行った勇気(染谷将太)が、あまりに木が高く売れるのに驚いて「山に生えてる木、全部切って売っちゃいましょうよ〜!!」とか言う場面がでてくる。一本50万円くらい。

 

それに対して親方は、山にある木は先祖たちが植えて育ててきたもので、今の自分たちが植えて育てている木も自分たちで切って売ることはない。今自分たちの利益を求めて木をたくさん切り、売ってしまうことは子孫へ森を残さないことになる。今やっている仕事が成功するかどうかは自分たちにはわからず、まだ見ぬ子孫たちだけがその結果を知るのだ的なことを言う(正確な台詞覚えてない)。

 

林業をテーマにして物語を書くとしたら、誰でも登場させるだろう、いかにもありそうなエピソード。

 

学問をやることになんで国がお金を出さなくてはならないのだろう、ということをさいきんずっと考えている。

 

今や、全世界的にそうなんだけども、その中でも特にこの国は学問をやる人間にあまり優しくない。かなり順調に研究者としての道を歩んだとしても定職につくのは一般的に30歳すぎになるが、それまでは4年制大学新卒の初任給に毛が生えた程度の給料しかもらえない。それすらだめだと(かなりの人がそうだ)、アルバイトしつつ、研究に励むということになる。

 

研究者の人たちは、研究環境の待遇の悪さを声高に訴えている。研究者個人に対しての待遇も悪いし、大学に与えられる研究費とか、なんかよくわかんないけど、とにかく研究環境への必要な投資が国から充分になされていないらしい。

 

そもそもなんで、国が、国民から集めた税金を学問に使わなきゃいけないんだろうか。ずっとよくわかんなかった。技術開発に使えるようなもの、とか、医療に応用できる、とか役立ちそうなことに関する研究に投資するならまだしも、役立たない研究にお金あげたってねえ。

 

文学とか、芸術とか、哲学とか、自然科学の分野だって基礎研究だったら、なんの役に立つのかわからないものが多い。いまの学問についての社会的な状況でとくに窮地に立たされているのはこういう研究。

 

ここで、考えなくちゃならないのは、役に立つってどういうことか、ということと、学問は役に立つからやるんだろうか、ということだ。

 

ここまで言ってきた状況のなかで「役に立つ」という言葉が使われるのは、主にお金を稼ぐのに役立つという意味になると思う。人間が生きていくのに必要って意味ではない。だけど、人間が生きていくのには必要なのに、お金にならないことっていっぱいある。

 

人間が生きていくのに一番近いところにはお金が使われない、みたいなことが言われているのを聞いたことがある。たとえば、保育とか、学校教育とか、介護とかの現場の待遇は悪い。いろいろある職業のなかでも人間が生きていくために基本的で必要な仕事なのに。なんでなんだろうと、考えたときに、当たり前すぎることにはお金が落とされないからってことなのかな、とも思った。

 

人文学って、字面が示しているように、人間についての学問である。役立たない学問の筆頭であるかのように言われる文学研究は、人間の心とか内面について深い探究をしている。文学研究がなかったら私たちは自分に一番近いはずの自分の心というものについて、今ほどには知ることができなかったかもしれない。でも自分の心を知っていることは当たり前なように思われるから、私たちは改めてその研究の価値について考えることはしない。

 

私は、学問は人間にとって必要なものだからあるのだと思う。でも必要だからといってすぐにお金になるとは限らない。当たり前すぎるから価値がないように思われてしまうのかもしれないし、あるいはお金になるまでにとても長い時間がかかってしまうからかもしれない。教育だって、成果が実るまでにはとてつもなく長い時間が必要だ。

 

いますぐにお金になるわけじゃないし、必ずしもお金になるとは限らない、だけれど、絶対に必要なものもある。そういうものを守っていこうという決断をできるのは、人間が一人ですべて必要なことをやる生き物だからでなく社会を形成して役割分担をして生きている生き物だからであって、それをうまく利用してまだ結果のわからないものに想像力を働かせて、理性的な決断をしていくことが、教養のある人間のなせることなのではないかと思う。

 

とにかく、自分が生きているのかどうかわからない未来のために学問を一生懸命やって育てることを頑張りたいなーとかなんとなく思う。

 

大学院にはいるための手続きの書類がめんどくさすぎてぶちぎれてる。

卒論の感想

どうでもいいことばっか書いてるけど、一応勉強の記録用だから......

 

いろいろと忙しくしていたのがひと段落したので、卒論のことを振り返る心の余裕ができた。

卒論は心配していたほどは、ひどいものにならなくてよかったです。

先生方には、「まあ学部生としてはよく書けてる方なんじゃないの」的なことを言われて、そりゃ、ほとんどの学部生が就職する中で哲学続けてこうとしてるんだからよく書けてる方じゃないと困るわけだけど。

 

だけども、ひっかかっているところもあって、主査というかずっと私のことを指導し続けてくれていた先生はおおむね良い評価をしていてくれてはいるものの(ていうか先生は甘いから、ほんとうのところどうなのかはよくわからない)、なんかおもしろみに欠けるっていう反応で、それは悔しいところ。

 

先生は、ゼミとか入る前のまだ個人的にそんな知っているわけではない頃から私のことをよく気にかけてくれていた。先生の哲学概論の授業では何回かに一回、授業内のレポート課題が出て、知識の記述じゃなくて、自分の考えを書かせるもので、次の週の授業で良いレポートを書いた人の名前を発表する。これは自慢だけど、私の名前はいつもそこで挙がっていた。いつも教室の最前列に座って(先生のことめっちゃ好きだから)、だけど授業の開始直後からいつもぐっすり寝てた(授業難しいから)私だったが、とにかくそのレポートだけはいつも一生懸命書いていた。

私がいつもそこで名前を呼ばれたのは、優秀とかまじめだからではなく、単純に私が哲学的に考えるということに向いているからだと思う。知識は全くないけど、哲学的に考えるということには知識はあまり関係ない。そういう適性があるところは私の強み、というか、大学で勉強してきた今までの自分を見ても、大学院に受かった要因と思われるところを考えても、そこしか強みがない。もともと勉強に向いてないし、哲学の知識全然ないし、頭悪いし、ものごとを理解するまでに恐ろしく時間がかかる。こういう、研究をしていくためにかなり大切な適性が私には大幅に欠けている。たぶん、大学で一生懸命勉強している人たちは、私がまったくもっていないこういう適性に秀でた人が大多数なのだと思う。

だから、そういう意味で、そういう適性がないのに、ただ哲学的に考えをこねくりまわすのが得意というだけをよりどころにそれなりに勉強頑張ってやりたい学生ということで、先生には面白がられてきた。

 

卒論は、そういう面白みのまったくない論文になった。事実の羅列というか、たぶん誰でも書けるような論文。先生には「サーベイ論文としてならどっかの雑誌に出せるって感じですよ」って言われた。私に対するコメントとしてはあまりよくない評価のコメント、先生もそれを意識して言っていたと思う。

 

でも卒論を書く中で気づいたのは、私が今までやっていたようなテクニカルな思考の使い方は、ちゃんとした内容の哲学研究ではとても難しいということだった。難しいというのは、そうした飛び道具を使うにはそれなりの材料が必要であるという意味で、ちゃんとした哲学研究で、飛び道具使うには、知識の積み重ねが必要なのだ。今までの私のやり方を続けられるほど、私には知識がなかったし、思い返してみれば知識を仕入れようともしてこなかった。

 

ここでそのことに気付けたのはとてもよかったと思う。修士の二年間は自分の基礎を作る二年間にしたいし、そもそも科学哲学とかいう空虚な議論になりがちな分野でどうやって中身をしっかりさせていくのかというよりどころを見つけられるようにしたい。ほんとうはこれは学部生のときにやるべきことなのだけど。

 

卒論の出来は悔しいものだけど、だからこそ次につながるものがあると思って、がんばります。

 

 

買い物たのしい

なんかけっこう最近は、善くありたい、とかそういうことを考える。だからといって、積極的に善いことをするのも苦手で、たとえばボランティアとかはこそばゆくなってどうにもできない。

 

誕生日に鞄を買ってもらった。私はいつもリュックしか背負わないけど、女子大生とかOLとかがもってるような、書類が入るくらいの大きさの手で持つ鞄。さすがにどこにもかしこにもリュックで行っていい年頃ではなくなってしまってきたし、もう大学も卒業するし。

鞄を買うならここで、とはもうずっと決めていて、そこで買ってもらった。発展途上国に工場を作って、そこで生産して、フェアトレードで輸入しているブランドがある。たぶんそこまでなら、途上国支援としてけっこうそういうのありがちだなってかんじだけど、私がいいな、って思ったのは、そのブランドの創業理念が「途上国から世界に通用するブランドをつくる」となっているところなのだ。実際、デパートに店舗があって商品が並べられていても、ほかのお店と遜色ないくらいにちゃんとしてる。質の良い本革で、作りもしっかりしている。デザインもおしゃれだし、機能性もそれなりにいい。途上国支援とかそういう背景なしに、商品としてちゃんと価値のあるものを作っているというところが甘えがないかんじがして、かっこいいなと思った。

 

そういう話で言えば、最近は吉祥寺のマジェルカという雑貨屋さんもよく行く。このお店は一見普通の雑貨屋さんだけど、扱っている製品は全部、障害のある人が作ったものなのだ。障害のある人が働く作業所で作られたものって、ださくて使わないだろうけど付き合いで買うようなものというイメージがあった。だけどマジェルカはおしゃれだし、実用的で、普通にほしいと思うものを売っている。やっぱそういうのかっこいいと思う。

 

化粧品も、オーガニックだの無添加だのそういうものを使っている。肌が弱くて、薬局とかで売ってるような化粧品が合わないのが一番の理由ではあるけど、動物実験をしてないというのも大きい。(動物実験は嫌うくせに、皮革製品を使うあたりにまだ私の矛盾があるっちゃあるのだけど)

 

わざわざ善いことをするのは、なんか性に合わないというか、そこまでいい人じゃないし、たぶんやっても続かないんだけど、自分に必要なものをどう選択するかというのはそんなにむずかしいことじゃない。経済活動が社会を作ってるなら、善いことをしているようなところにお金をまわしていけば、結果的に善い社会になるんじゃないかなという気もする。自分が稼いだお金が、どういうところに流れていくのかにも責任を持ちたい。

 

そういう気持ちと、本当に実用的なものを売っている善い商売をしているところがうまくマッチしてると嬉しい。それに善いことは継続されることで意味をなすけど、物事を継続するのはとても大変だ。だから実用的であるとか経済上の利があるということは、継続がストレスなくできるという意味ではとても大事なことだなとも思う。

 

好きな本

好きな本を並べる。

本の紹介を書くのは、小学生の時から苦手なので、あまり書けないと思う。

一番好きな小説ジャンルはYAです。

どんどん上に積み重ねて追記していく予定。

 

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川島誠『800』

実は映画化もしているらしい、川島誠の傑作。匂いや息遣いまで感じられそうな、だけどちょっとかっこつけてる一人称小説。神奈川の海沿いに憧れがあるのは川島誠の小説のせいだと思う。

 

中田永一『百瀬、こっちを向いて。』

表題作ももちろん良い。家庭教師の先生の話が一番好き。乙一としての名義の小説は怖くて少し苦手だけど、『ZOO』に入っている「陽だまりの詩」の筆の運びには中田永一の小説に通じるものを感じる。

 

三浦しをん『きみはポラリス

短編集。そうなんだよ、ほんと、ポラリスなんだよ。

 

窪美澄ふがいない僕は空を見た

前評判とか、映画の予告とか見て、てっきりゲテモノ小説なのだと思って読んだらまったく違った。救いのある小説。

 

有川浩『クジラの彼』

なんだかんだ有川浩の小説はほとんど読んでるけど、別冊よりも『植物図鑑』よりも、エッセンスが注ぎ込まれているのはこれじゃないですか……冬原……

 

いしいしんじプラネタリウムのふたご』

「だまされる才覚がひとにないと、この世はかさっかさの世界になってしまう」いろんなときにこの台詞を思い出す。

 

あさのあつこ『NO. 6』

私たちが小学校高学年から中学にかけてくらいのときにめちゃめちゃ流行った。ディストピア近未来SF。何年か前にノイタミナでアニメ化もしていた。この『NO. 6』とか、はやみねかおるの『都会のトム・ソーヤ』(いわゆる「まちとむ」)とかを出していた講談社YA! エンターテイメントというレーベルは、玉石混交なYA、あるいは児童文学業界の中でも面白い小説が揃っていたような気がして、中学生のとき図書館で端から借りていた。

 

浅田次郎『地下鉄に乗って』

浅草で銀座線に乗ろうと地下街に降りるときいつもこの小説を思い出す。浅草駅出てこないけどね。浅田次郎の小説はつやつやしてる女の人とか渋いおじさんがでてきていい。

 

沢木耕太郎深夜特急

本当に好きすぎる面白すぎる。平野甲賀による装丁もよい。

 

川島誠ロッカーズ

川島誠は、スポーツ少年の一人称小説が至高だけど、これは異色で、ロックバンドの話。

 

三島由紀夫『美しい星』

中学生のころ三島をいっぱい読んだ。これは宇宙人が戦う話。悪い人たちが家に来て言い争うシーンが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大審問官のところに似ているなと思っていたら、そう指摘している評論を見つけて妙に嬉しかった記憶がある。なので、大学のロシア文学のレポートではそれを書いた。

 

金城一紀レヴォリューションNO.3』

ギョウザ大好き!!ギョウザ大好き!!

 

上橋菜穂子精霊の守り人

守り人シリーズの第一巻。私が意識的に好んで本を読み始めたのは守り人シリーズがきっかけだったように思う。まだ10歳にもならないうちにこういう良質な物語を読むことができたのは幸せなことだなとじわじわ感じる。

 

小澤征良『蒼いみち』

文章を書くのがうまい人とか、物語を作るのがうまい人とかはそれなりにいると思うけど、そういうのと全然違う。勝手に文章が溢れ出てきてしまう感じ。ただの日常の小説なのに全然違う。感覚的な描写が多いのも肌に合う。

 

那須田淳『一億百万年光年先に住むウサギ』

一番好きな本を一冊挙げろと言われたら、絶対にこの本を選ぶ。特になにか、変わった話でもなく、ありがちなYAだと思うのだけど、文章のにおいや空気感が特別。だいたいの本は一度しか読まないけど、この本はたぶん10回以上読み返している。

 

『永い言い訳』を観てない

永い言い訳』は去年の10月に公開された、西川美和という人が監督の映画で、観に行こうと思ってた。

 

公開までかなり楽しみにしていて、絶対観に行くと心に決めていたのに観に行けなかった。映画を観に行くのはなんだかいつもハードルが高いなあ。(ゴジラは3回観た)

 

観に行けなかったのは、例のごとくいつの間にか公開が終わっていたせいもあるのだけど、小説を読むひまがなかったというのもあって、『永い言い訳』は絶対に元の小説を読んでから観に行こうと決めてたのだ。

 

西川美和の映画は『ゆれる』を観たことがある。『ゆれる』を観たのは中学生のときで、そのときに私はとてもびっくりした。初めて観た映画なのに、既視感があって、あれー、これ観たっけなって思った。

 

でも観たことがあったわけじゃなくて、理由は監督自身が書いた小説版『ゆれる』を読んでいたからだった。『ゆれる』を読んで頭に思い浮かべていた風景と、映画のシーンがぴったりそのまま同じだった。

 

『ゆれる』から『永い言い訳』まで、西川美和は何作か映画を作っているけどそれは観てない。けれど『永い言い訳』は『ゆれる』みたいに小説と映画がぴったり一致するんじゃないかと、なんとなく思ってた。

 

だから小説を読んでから観に行こうと思ってたんだけど、小説も読まなかったから映画も観に行けてない。

ほんとどうでもいいこと

今日は卒論いっぱい書いたから、早く起きたわけじゃないのにもう眠くなってしまった。頭の燃費が悪いというか、単純に頭が悪いのだ。

 

この前幼馴染と遊びに行ったときに

星野源、もう好きじゃないでしょ?」

って言われた。

 

昨日、こんな記事がでていた。

星野源「こんな幸せあって良いのか」/紅白リハ (日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

 

星野源を聴き始めたのは、6年前、土曜夕方のJ-WAVEでクリスペプラーがやってる番組に、ゲスト出演していたのがきっかけだった。

 

星野源の名前自体は、SAKEROCKのメンバーとしても、大人計画の劇団員としても、そういう人がいるらしいということを前からなんとなくは知ってたけれど、「ほんとは奥田民生みたいなカラッとした声に生まれたかった」とか言いながら、優しく歌うの、すぐにぐぐって、「くせのうた」の動画を見たのをよく覚えている。

 

星野 源 - くせのうた 【MUSIC VIDEO】 - YouTube

 

その頃の私は、サカナクションのそこそこ熱心なファンでもあったので、サカナクションのボーカル山口一郎と星野源が二人でだらだら喋ったり、弾き語りしたりする不定期のユーストリーム番組、「サケノサカナ」も椅子の上にパソコン置いて床に正座して見ていた。

 

その頃はサカナクションがある意味全盛期で、そのユーストリームを見ている人たちも、サカナクションのファンが圧倒的に多かったと思う。星野源は、天才山口一郎の隣で所在なさげににこにこしていた。

 

一昨日、家でJ-WAVEが流れていて、「くだらないの中に」がかかっていて、久しぶりに聴いた。

 

星野 源 - くだらないの中に 【MUSIC VIDEO & 特典DVD予告編】 - YouTube

流行に呑まれ人は進む 周りに呑まれ街はゆく
僕は時代のものじゃなくて
あなたのものになりたいんだ

 

「くだらないの中に」が出てから5年が経つのだ……。

家帰ったらiPod充電しよ

今日は小学生のときから大好きなバンド、くるりのボーカルである岸田繁が作ったシンフォニーの東京初公演だったらしい。行こうかな、どうしようかな、なんてしているうちに、チケットがなくなってしまったからいけなかった。

ツイッターで検索してみても、くるりファンの感想ばかりで、クラシック音楽的にはどうだったんだろう。でも、なんであろうと岸田繁はすごい。すごい作曲家である。

 

教職の論文がめちゃめちゃに重くて、卒論のことが頭から抜けていて、卒論に戻ってきてみたら、なにをしなきゃいけないのか忘れてしまった。

教職の論文は、近代以降の日本の教育において「個性」概念がどのように扱われてきたかをやっていて、教育基本法読んだり、教育思想を勉強したりしている。論文も何本も読んで、本も図書館から20冊くらい借りて眺めている。けっこう面白いことがわかってきてなんだかいいものが書けそうなのだけど、哲学の論文と作法が違って勝手がわからないところもある。

 

卒論は、構造実在論における「構造」をどう理解するかを書いている。今はIoannis Votsisという哲学者の論文を読んでいる。顔がとても濃い。理論交代において、保持される構造と保持されない構造の違いとはなんなのか、というとこから攻めていきたいのだけど、いまいちまだ理解できていない。大丈夫なのかな、卒業できるのかな。とりあえず議論の前までの歴史的とか知識的なところまで書き進めている。

 

ここ数日なんだかずっとだるくて、朝遅く起きて、文献読もうとしてもぼーとしてしまって、授業さぼってみたり、友達とお酒のみにいったりしても、いまいちエンジンがかからない。ほんとに、授業さぼるようになった。今週なんて一週間の中で一番好きな、社会学の授業をさぼった。なんか、授業さぼると、時間ができるんだな、って大学四年の冬にもなってやっとわかった。でも、授業さぼってもなんにも進まないや。ほんとに停滞期、たまにこういうときがくる。

 

最近の収穫は、テクストを読むことの面白みがわかってきたことかも。本なんて多分今までで1万冊近く読んでいると思うけど、ただ字を読むのと、テクストを読むというのは全然違うのだなと、知識としては知っていたけれど、実感として知るようになった。これは論文をレジュメ作りながら細かく読んでいくようにしたからというのが大きい。そうしたら普通に文章読むときも、読み方が変わった。受験生が終わってから、受験現代文のせいで自分の文章の読み方が変わってしまってショックを受けたけれど、やっとそこから抜け出せたかもしれない。

 

だらだらこういうこと書いちゃうくらいにだめだめだなああ。家帰ったら久しぶりにiPod充電して明日は電車でくるり聴こ。